丈 夫 の 矜 持
    市議会議員 佐 藤 壽三郎

 西郷隆盛公が明治6年に下野して、無冠であるに久しいにも拘らず、政府に異議を質そうと決意し、明治10年2月15日薩摩を発とうするときに、「陸軍大将西郷隆盛として、二日後に熊本鎮台を通過するが、それなりの礼を持って一行を迎えられたい」旨を、熊本鎮台司令長官宛に申し入れた書状の冒頭部分が、鳩山邦夫総務大臣によって再び日の目を見た。

 この照会状が、果たして西郷隆盛本人の手にかかるものか否かが取り沙汰されているが、薩摩を挙げての出立である時代背景を考えれば、時の政府の最高権力者大久保利通と対峙するには、かって明治天皇から命ぜられた「陸軍大将西郷隆盛」としてでなくてはならない。

 この下野してからの4年間も、こと明治天皇に対する西郷の心底は、天皇の臣下であることに代わりは無かったのであろう。而して薩摩を立つとき「陸軍大将」として蘇ったというより、明治天皇に拝謁願うためにも、政府要人に異議を質そうと馬上にまたがった以上、明治天皇から命ぜられた「陸軍大将西郷隆盛」でなければ義が立たない!

 恐らくは日本がある限り、全てを投げ打って質そうとする日本男児は、「拙者儀、今般政府への尋問の廉(かど)有之・・・」とこのことばを引用するだろう・・・

 私は、ある年に行政視察で熊本県山鹿市をお訪ねした。研修を終えて翌日の行政視察地である熊本市に向かおうとしたとき、山鹿市議会事務局のご好意で熊本市まで車で送ってくださることとなった。道程の途中に西南戦争で薩軍と官軍の激戦であった田原坂があったので茲を訪ね、慰霊碑に深々と頭を下げたことがある。慰霊碑には官軍も薩軍も今はなく全ての戦死者の冥福を祈るために名が刻まれていた。

 然し・・・ひときわ薩軍の名簿の筆頭に刻まれていた西郷隆盛公の名が、いまでも強烈に脳裡に残っている・・・

 田原坂山頂は異様な雰囲気の場である。心鎮めて耳を澄ますと薩軍兵士の雄叫びと断末魔の声が入り混じって聞こえる・・・

 
 政府に意を質しに発った筈の薩軍は、この田原坂で官軍(政府軍)と激戦を交わした。然しこの戦いで薩軍は「政府に尋問の廉」の望みを木っ端微塵に粉砕させられた。

 何故か・・・維新の最高功労者西郷隆盛が上京することは、明治政府の中枢を司る為政者にとって、かっての陸軍大将も今は単なる政府に対する謀反人であり、時代の邪魔者でしかなかったのかもしれない。

 西郷隆盛とすれば、「政府に尋問の廉」とは、只管憂国心から湧く「政府に尋問の廉」であり、そこには「人生感意気 功名誰復論」でしかなかったのではないか・・・


平成21年6月19日記す