青春の追憶

山の変化と人のしぐさと


 飯山の菜の花畑の遥か前方に二つ瘤(こぶ)と峰に連なる連山が高社山(通称・高井富士)である。私は平生、南西方向からこの高社山を見て何十年にもなるが、山の姿が須坂から眺めると極めて美しいし、斑尾山と兄弟かと思わせる姿でもある。

 ところが、山は表裏、或いは東西南北と見る角度や方向によて全く異なった容姿になるものである。飯縄山も黒姫山も同様に見る場所や高度によって山の容姿が変化する。

 山の変化と同様に、我々は現実の経済に状況に対しても、これと同様に多面的な情報と分析をせねばならない。偏向的な情報を鵜呑みにすると結果的に評論が的外れになることは誰しも経験があろう。

 こと人物評価も同様である。なにげない無意識な「しぐさ」を古人は静観していて、これを見逃さなかった。山は見方によって変化するが、定まった場所に行けばいつでもその姿は見ることが出来る。即ち山は少しも変化などしていないのである。無意識に発する「しぐさ」は、極めて無形で抽象的で捉えどころがないが、どっこい相手の心に「第一印象」として残るものである。人格そのものの評価と言える。

 「印象」はそもそもあてる「指し物」(スケール)が様々である以上、結果としての評価も異なることは当然の話であるが、山と違うところは、様々な経験や修行等によって、人の評価はさまざまに大きく変化するところが摩訶不思議ではないか。厄介な代物でもある・・・

 岳北(高社山の北側の意)の地に立って、山の容姿の違いに驚嘆し、人の評価の危うさをあれこれと感じたことを書き記した次第也。

2014年5月10日