雀のこころ
 
 我が家の軒で雀の番(つが)いが毎年巣を作り、雛を孵(かえ)す営みが繰り返されております。雀の寿命からすればもう何代にも受け継がれての営みですが、我が子たちも毎年雀が軒先で雛を育てる様を歳時記として捉えて育ちました。
 今年も親雀に餌を求める雛たちの賑やかな鳴き声が盛んに聞こえており、間もなく巣立ちだろうと思っておりました矢先・・・

 悲劇は私が議会に登庁している留守中に起きたようです。なにものかが雀の雛を襲い、その際に親鳥も一命を落としていたことが後日わかりました・・・

 ある日、議会から帰宅して庭を見ていると、雀が地上に舞い降りて嘴で何事かしています。その仕草はまるで「おい!起きろよ!」と言っているようでしたが、凝視するとその先に雀の屍がありました。このとき私は初めて親鳥が一命を落としていた事実を知ったのです。そういえばちっとも雛の鳴き声が聞けないとは思っておりましたが、このとき初めて巣が襲われたことが呑みこめました。

 番(つが)いの片われは、一生懸命につれあいを起こそうとしていたのです。私は、子どもたちが小学校のころの、夏休みだか冬休みの宿題帳に載っていた、信州は上伊那地方の民話「入野谷の猿」の話しを思い浮かべました。将にそれを地で行く光景ではありませんか!

 こんな小さな生き物にも『こころ』があると思えてなりません。死を理解できなくても、身動きをしない番いの片われを、愛おしく感じて傍らに歩みよっては体を揺さぶり。張り裂けんばかりの愛惜をこの雀は屍に注いでいるのでした。一瞬にして家族の総べてを失ってしまったにも拘らず、健気にこの場を去らず屍に寄り添っていたのでしょう。

 何たる悲劇か。私はこの雀の亡骸を手厚く葬ってやりました。
 
 数日して・・・
 私が縁側から外にでようとしてガラス越に外を見ると、私の下駄の鼻緒に雀がおり、嘴であたかも鼻緒についたゴミを一生懸命に取り払っているではありませんか。「はて?」と思いながら戸をあけると、雀は庭先の枝に飛び移り私の方を振り向くと、頭を何べんも何べんも下げたかと思うと、空の彼方に飛び去って行きました・・・

 事実は小説よりも奇なりとか。雀は亡骸を葬ってもらったお礼に来たのでしょうか。それとも土に帰すために覆われてしまった「相棒が見えないよぅ・・」と、私にせがみに来たのでしょうか?

 このことは、ものの憐れを知る人唯み知り、解する人唯み解する、仏法の世界なのかもしれません。

2005/06/22 (水)