まつべる まつばる




 もう45年ばかりも前になる話で恐縮ですが、中学3年生時の保健体育の授業(男子だけの2クラス合同授業)でありました。担当の教師が休まれたのか、代わりに教室に現れたのは、本来は国語の教師であられる天野義恭先生であられた・・・
 しかし授業が始まると、先生は保健体育の授業内容とはおよそかけ離れた、「男子たるものの生き方」について淡々と語りはじめられた・・・・・

          男児立志出郷関 学若無成不復還 
          埋骨豈惟墳墓地 人間到処有青山


 やがて、先生は黒板に上記の漢詩の「書き下し文」を書かれて、「この青山の意味を正解した者は、今日は他の授業に出なくて家に帰ってよろしい!」と言われたのであります。公認の早や退けが出来る褒美付きに、僕も「青山」の解釈に挑戦したが、然し誰も文中の「青山」を正解することはできなかった。



 私は小学校4年の時に父を亡くしました。尾が切れた凧の如く蒼天をグルグルと廻りはじめました。このとき凧の回転を止めて、少年に大きな志しを抱かせ且つ支えてくれたのは、母であり、姉たちであり、担任であられた山縣龍観先生であり、そして私が生まれ育った泉小路界隈に住まう皆さんでありました。砕けた表現を許されるならば、近所のおじちゃんやおばちゃんが、私を慈しんで育ててくださったのであります。まつべて戴いたのであります。


 北信地方の方言に「まつべる」(目をかけてやる意)「まつばる」(目をかけてもらう意)がありますが、「まつべる」とは見返りを望まない『支援』にほかなりません。これこそが人間関係を大きくするか小さくするか、人生を豊にするか貧弱にするかの分かれ目とも思える人の情けに他なりません。


 血縁故に、地縁故に、仏縁故にと、まつべる・まつばるの起因は様々であります。人生で大切なのは、人とのめぐり会いでありますが、幸にも私は小・中・高校のそのときどきの担任に恵まれたと言い切れます。故山縣龍観先生、山崎厚先生、故宮下平先生方の薫陶の先に上京のチャンスがありました。


 19歳の折上京し、弁護士の書生になることによって、大学で法律を基礎から学ぶ機会を得ました。法律家として食べていくために最も必要な「法律的な思考の手立て」も、恩師の一挙一動を通して学びました。


 あの時に上京するチャンスが無かったならば、故平井良雄弁護士、笠井盛男弁護士に師事しなかったならば、多分私は「須坂に偏屈で自尊心の強い男がいるぞ」程度の人生であったかもしれません・・・



 上京するときに心に刻んだ「男児立志出郷関 学若無成不復還」の決意と、少年時代より母や先生方に諭された「寧為鶏口、無為牛後」の詞が、青春時代の心の核であったと言えます。実は邂逅とは、めぐり会いとしてその時点で己に与えられるチャンスであり、人生の最大の三叉路であり、人生の崖っぷちの心の正念場であると言い切れます。この場面で必要なのは、チャンスを下さる人に賭ける信頼と、この道を進もうとする決意と、恩に報いるための克己心であると思います。


 まつべて戴いた人は、数多(あまた)にのぼります。そのお一人お一人が私にとって恩人であります。それぞれの人から大なり小なりの恩恵を受けたことに、況や時代(時間)や居住(共存エリア)を共有し、人生の道しるべまで影響を得ていることを思うとき、心から感謝で一杯の気持ちになりますが、「まつべて」下さった方々のその多くは、既に故人になられておられます。


 賜った恩のお返しを亡き恩人に出来ませんので、私がかって恩人にして戴いたように、志しのある人を「まつベる」こととしています。これこそが人の世の輪廻というものであり、私なりの恩返しであると思うからであります。



 今朝、女房や子どもたちから誕生日(還暦)の祝福を受けました。
「誕生日おめでとう」と女房どの
「お父さん誕生日おめでとう」と電話で倅(東京に遊学)
「おとうさん!いつまでも元気でいてね!」とやはり電話で娘(東京に遊学)。
 金銀財宝に勝る言の葉でありませんか。私は只々「ありがとう!」と答えました。 


 還暦を越えたこれからの人生にあっては、漢文「漁夫辞・屈原」にもあるように

           滄浪之水清兮 可以濯吾纓  
           滄浪之水濁兮 可以濯吾足


 即ち、水が清んでいたら冠の紐を洗い、水が濁っていたら足を洗う。漁夫のこのこだわりのない生き方、気負いの無い生き方が肝要なのだと感じております。






BGM 亜麻色の髪の乙女   ドビッシー 『前奏曲集 第1集』より



 
佐藤壽三郎メールマガジンVol.240  発行日:平成19年8月9日より