泉小路界隈を語る〈其の五〉


かんだやま
泉小路 萬良


 鎌田山(かまたやま)は「かんだ山」と呼ばれ、須坂小学校、常盤中学を出た者には心の故郷である。小学校の6年間は山に登らない日がないほどにこの山に登った。それほど高い山ではないので、多いときなどは一日に3回も4回も登った。当時は登山路が、今ほど山肌が茂みで覆われておらず、麓(ふもと)から頂上まで見通せたので、頂上で手を振ると麓でもこれに応えて手を振る。あるときなど、校庭に近所の魚屋の飼い犬ジョンがいた。山頂から「ジョン、ジョン」と何遍も呼ぶと、声が麓にいるジョンの耳に届いたのか、ジョンは最初は耳をあちこち振っていたが、やがて声の発信源を探し当てた。頂上にいる僕の声を確認すると、一気に頂上まで駆け上がってきたことがあったが、犬の耳の良さに驚くのと、頂上まで駆け上がる体力に居合わせた仲間は感心した。何よりも日頃可愛がっている犬であればこそ、頂上までとんできたものと思う。



 かんだ山は登り方が幾通りもあった。大川を渡りプール際から登る。一本松の崖から登る。常盤中学プール側の藪から登る。水車小屋側から登る。射撃場脇から登る。吉向焼釜跡から洞穴道を登る。大谷の洞穴出口から尾根に出て登るコースと色々あったが、一本松の崖から登るコースが一番難関だった。小学5年生の頃であったか、同級生とこのコースに挑んだが、途中で掴まる潅木も無くなり、草を掴んだが根元から抜けて崖を転がり落ちたことがあった。腹ばいにずり落ちた後、ゴロゴロと転がり落ちた。漸く止まったが体中擦り傷を負った。生きた心地がしなかった。



 かんだ山には洞穴(ほらあな)が3つあった。戦時中陸軍が松代大本営設置に併せて掘った通信隊設置のための洞穴であったらしいが、戦争も終わり十年もたっていたので、戦争の痕跡は「どぶ」の淵にコンクリートの土台が2基ほどあった。当時すでに第一と呼ばれる洞窟は、出入り口が崩壊していて入れなかった。第二と呼ばれる洞穴は通り抜けができたが、一本道でないので洞窟の内部を知らない者には通り抜けはできない。第三と呼ばれる洞穴は行き止まりであるが、内部が綺麗に整えられたものであった。行き止まりの他方に通じていないので、万一落盤があったら出て来れない不安のある洞窟で、洞窟を探検と称して入っても、出口が見えなくなるととても怖く感じる洞穴であった。



 第二洞穴は、子どもたちの格好の遊び場であり、探検の場であり、度胸だめしの場であった。入口から10mほど入ると落石の跡があったが、落盤事故さえなければ極めて快適な遊び場であった。しかし洞穴には「たいまつ」が無いと入れなかった。最初は懐中電灯を持って入ったが、今みたいに強力な光を発するものがない時代の懐中電灯は、真っ暗な闇の中では通用しない。せいぜい2mぐらいの地べたは確認できるが、闇の中を照らしても光が闇の中に吸い込まれて役に立たないのである。洞穴の闇の世界は、目をつぶった暗さとは比較にならない暗さで、目を満開に見開いても何んにも見えない闇であり、あの暗さは洞穴で経験した人だけが知る暗さである。



 あるときは、「どぶ」と呼ばれる沼近くで、ススキを大量に束ねて松明(たいまつ)を作って中に入ったが、燃えが早くて役に立たず失敗した。色々と火持ちの良いものを試した結果、ゴム長を針金で棒に垂らした方法が一番重宝したことを思い出す。出口の通路からほぼ直角に左に曲がり、少しゆくと竪穴となる。岩を伝わって竪穴をゆっくり降りると底につく。ここでは火を焚いていて竪穴から落ちるのを炎の灯りで照らして防ぐ配慮であった。さらに奥に進むと洞窟は亦暗がりとなるが、大谷口に向かって左側面の壁を伝いながら進む。カーブを描く、暫く闇の中を進むと、前方に大谷口の明かりが差し込んでいるのが確認できる。ほっとする瞬間であるが、大谷口は胃のような形をした大きな空間で、方向を失うと出口がわからなくなる。出口の明かりをめがけて左側面を辿りながら急な斜面を登り外に出ると眩しい光景が広がる。



 小学校時代に命を共にして、この洞穴に入った幼馴染である哲ちゃんをはじめ仲間たちは今何処にいるのであろうか。きっとどこかの酒場で、第二洞穴の図面を書いて酒の肴に自慢話をしているだろうか。無理も無い、第二を通り抜けることは、柔道で言う黒帯に等しいガキ大将の登竜門であったからだ。泉小路界隈で育った男子(おのこ)は、皆この洞穴を通り抜けて大きくなった。