夜学のあかり 其の1  


                   へこたれるな!


 昭和38年4月、県立須坂西高等学校定時制に入学しました。地元の人たちは西高と呼び、県内には須西で通っている学校です。二番目の姉は僕が高校に進学したことを祝って、「一帽」と言われる学生帽を買ってくれた。

 須西は信濃五岳と竜胆を形どった校章であり、二本の白線が眩しく、「俺はきっと夜学という滝から滝頭に登り竜になる」と決意して、勤めの関係で遅刻をしても、一日も休むことなく4年間を学校に通った。

 当時は言うに言えない辛い切ないことも沢山あったが、とき経ての今は懐かしき限りである。志を萎えることなく夜学を出たればこそ今があると思っています。



 私たち2組の担任は宮下平先生で、愛称は「カマキリ」。1組の先生は田中寛先生、通称「デンチュウカン」或は略称で「カンさん」と訓読みするのが夜学の伝統であった。外に名物先生は、辞書を恰も皿を舐めるように読んだことを、こと有る毎に自慢する新井先生は通称「ドン」。生物と地学担当の米久保先生は「鬼久保」。数学の先生は、物事の後に必ず「速やかに!」を付け加えるので、いつのまにか通称は「スミヤカ」と呼ばれた中野先生と事欠かなかった。特に「カンさん」は、早稲田を出たこともあってか、老いても元気がよく、主事先生や教頭先生、はたまた校長先生よりも威勢がよくて、定時制をこよなく愛していた。生徒に厳しく容赦なく我々を鍛えあげてくれた。先生の授業は教科書4分であとは、身の処し方や男はかくあるべしの人生訓であって面白かった。

 同期生が曲がりなりにも卒業し、夫々において活躍できることは、西高夜間部に籍を置き、これらの夜学に情熱を持ち、こよなく夜学生を愛してくれた先生方に、十代の後半を蒲の穂綿で包まれた時間があったればこそと感謝している。先生方の熱・意気・ガリが夜学そのものであった。


 ここで、夜学(定時制)の思い出を語ろう。先ずは煙草にまつわる話。

 4年生になると煙草が流行する。無理もない昼間会社等に勤めていれば、煙草は勤め先の先輩から教えられ、それを学校に来て教えるは世の習いである。興味が9割と1割は友だち付き合いかも知れない。夜学は1年余分に学校に通うこともあて、極めて同級生の絆が強くなる。友情の裏切りは許されない。これは理屈でなく道理であった。

 あるとき、同級生に煙草の喫(す)い方を教わった。友達曰く、「お前の喫い方は、噴かしているだけだ。煙草はこうやって、煙を『スウーー』と肺に一旦いれてから、『フ〜〜〜』と吐き出すのが作法だ。それやってみろ!」と馬鹿にされた。

 須西の男子(おのこ)は、負けてはならない。臥竜魂は須西健男児の心意気であることを拠り所とする気風のある学校である以上、後には退けなかった。煙草を唇にあて、煙を「スッ!」とした瞬間、頭の芯が「ガクッ!」以下はクラクラで、吐き気をもよおし、自転車のペタルもままならず漸くのことで家に戻って横になった。夕方学校に行くのがやっとで、授業中も頭の中は数日「ボァ〜ン〜」としていた。

 ある日、先生に個別に職員室に呼び出しがあった。呼び出される連中から凡そ煙草の調査であることが判った。最後に僕が呼び出された。



先生  「佐藤 煙草を喫っているようだが・・・・」
僕   「はい!」
先生  「何? 喫っている?」

          (カマをかけて誘導して置きながら、生徒が素直に答えると先生は、
            「得たり」と次の質問を浴びせて来ました。ここは職員室ではなく
            警察の取調室の雰囲気となりました。)


先生 「煙草はどの位喫った?」
僕   「1箱です」
先生 「何!! 1箱?」

           (しまった。先生のおどけ方がいつもと違うぞ!何とかしなければ!!)

先生 「煙草は10本入れと20本入れがあるが、銘柄は何だ?」

          (僕の吸っている煙草は、戦前からある煙草だし、先生は煙草
           を職員室で喫っておられないから、銘柄も本数は分かるまい!とタカをくくった。)


僕   「朝日です」
先生 「朝日? 朝日だったら20本だぞ!」

           (あれれっ! 先生は煙草について音痴じゃないのか? 
               朝日が20本入れだと即座に言い当てるあたり、可笑しいぞ?)


 銘柄と本数を言い当てられた以上、素直に

僕  「そうです」
先生 「えッ! お前20本も喫ったのか?」

           (今更、嘘は言えない。俺も須西健男児だ!)

僕   「はい!」

 先生は、びっくりして動転し、沈黙の時間が流れた。

先生 「佐藤、お前はクラスで最高に喫ったな」
僕   「えッ?」
先生 「さて弱ったぞ。20本か?」
僕   「先生!  田幸君は? 関谷君は? 宇敷君は何本でした?」
先生 「田幸は1本、関谷も1本、宇敷は2本と言っている!」

        (今度は、僕が仰天した。ぷかぷか噴かしている彼らが、まさか1本とは?
           不覚であった。彼らとしめし合わせておけばよかった。しかし遅い!)


先生  「ところで佐藤! 1箱をどのくらいで喫った?」
僕    「え〜と、1ヶ月くらいかかったと思います」
先生  「1ヶ月? それじゃ喫わない日もあったということか?」
僕    「はい!」
先生  「そうかな? そんなことができるかな?」
僕    「??????」
先生  「佐藤な! 僕はお前位のときにやはり煙草を覚えた。おもしろくて、大人になったような気分で、友人と毎日煙草を喫ったな。一通りの煙草を喫ってみた。朝日も吸ったことがある。朝日はどちらかと言えば辛い煙草だぞ。先生は、お前の歳で一日に一箱は喫ったな。しかし今は一切嗜まない。
 お前は、クラスで一番煙草を喫ったと白状した。本来ならば退学だが、1箱も喫ったことに免じて『今回はかまいなし』だ。大人になったら煙草は一日に1箱ぐらい吸えるような男になれ。一日1本程度の喫い方しかできないならば、即刻煙草は辞めろ。
 行く行くは法律家になって、更に政治家となり世の中のために尽くすという大志を抱いている君は、つまらぬことで躓くな。自分を大切に青春時代を過ごせ。成人になるまで煙草は慎め。」

 
と静かに諭された。

 
 先生の家は代々弁護士を輩出する家であられた。先生も法律家になるべく中央の法科に進まれ、司法試験の勉強をされていたが、ひょんな拍子から教師になり、教え子から法律家を送り出すことが生涯の夢であられた。
 先生は、僕が上京するとき、先生の教え子の弁護士を通して、僕が弁護士の書生になって法律を学べるように道筋を開いてくださった。二十歳代に法律を学び、漸く五十歳で地方議員に駒を進められたのも、担任の先生のお力添えは計り知れない。将に恩人である。先生は54歳という若さで亡くなってしまわれたが、高校時代に職員室での先生の諭しは、その後の僕の人生で大きく心の重石となって、今でも僕の心の中で生きている。

 

 議員になって議会に詰めるようになった。議会棟の踊場から新装になった須坂高校が見える。会議が遅くなったときなどは、須坂高校夜間部の灯りが温かく僕には映る。「もし夜学に学ばなかったら?」と思うときがある。
 耳を研ぎ澄ますと40年前にタイムスリップする。石廊下やスノコ板、油の染み付いた教室等が瞼に浮かぶ。当時の先生方や仲間の声が聞えてくる不思議なゾーンである。学舎の灯りをみていると「壽三郎へこたれるな!」と応援してくださった先生方の声が聞こえる。母校の蛍光灯のあかりが潤んで見える。僕の大切な原点がここにある。定時制が僕を鍛えてくれた。

 「へこたれるな」 は、現在は横文字の 「 never give up」 として後輩に受け継がれている。