麻布一本松

 
 
 昭和42年の春の話である。私は大志を抱いて高校の恩師のお世話で、弁護士の書生になるべく上京した。上京の遅れた理由は大学受験に失敗し、併せて予備校に通うこととなったからである。予備校は高円寺駅前にあるCゼミであった。
 上京する半年前に、恩師は私を長野地方裁判所内にあった弁護士会の控え室で、長野県出身でかって先生の教え子であるが、今東京で弁護士を開業しているT弁護士に引き合わせていただいていた。この弁護士を頼って上京、紀尾井町の先生の事務所を訪ねた・・・・・・・・・・・




 訪ねて行く坂の途中に立派なお屋敷があったので、よくよく近づいて表札を読むに、「衆議院議長公邸?」。うむ、教科書で読んだことのある「衆議院」だとか「議長」の話が現実を帯び、流石は東京だと関心し暫くは見とれていた。ふと昔に

・・・母は若かりし頃麹町のある子爵のお屋敷に坊ちゃんのお傍付きとして奉公していた。子爵の本家は明治の元勲であり公爵であった伊藤博文侯であったという。昭和の初め頃の話であるが、母がお屋敷奉公をしていると、同じくお屋敷には「書生さん」が居て、主人にお使えしながら勉強をしていた・・・・・・・・・・・・・・・
ことの話しを、小さいときから母に聴きながら育った。




 10歳の折父が急逝してぽっかり心に穴が空いた毎日であったが、あるとき母は私に、「父ちゃんが居なくなっても心配するな。大きくなったら東京に出て書生をすれば勉強ができるのだから。望みを大きく持て。男は苦学をしても学問を積まねば駄目だ!」と諭してくれた。

 書生の意味も東京も良くわからないが、大きくなったら東京へ行って書生をしながら学問を学ぶことだけはしようと思った。小学校4年のときの話である。母が若いときにお使えした「お屋敷」とは、こんな豪壮な佇まいなのかと関心しながら、しばらくは入口に立つ看守を見ながら、郷里に居る母親を思い出された。




 T弁護士と半年振りにお会いし上京したことを報告すると、早速先生がお声がけをして下打合せを願っていた弁護士さんの書生になることとなり、面接のために東京地方裁判所内にある「東京第二弁護士会」会館を訪ねた。暫くすると将に弁護士という雰囲気のある高齢で品のある人と面接する。

  先生「歳は幾つだ?」
  先生「19か」
  先生「故郷(くに)はどこだ?」
  先生「なに?信州長野か」
  先生「将来は何になりたい?」
  先生「なに?代議士!うむうむ」
  先生「親父は何をしている?」
  先生「死んでいないと?」
  先生「君の親父の名前と俺の名前が同じじゃないか!」
  先生「分った! 明日から9時までに俺の自宅に通へ。
      バス停は新宿二幸前にあるから田町行きに乗れ。」

 と言われ、名刺の裏に元麻布の地図を書いてくださったが、ひらがな以外の漢字は略字といおうか、くずし字で、僕にとっては英文以上にチンプンカンプンであった。




 翌朝、新宿駅東口二幸前を目安に行くが、そもそも「二幸」がわからず、人様に教わり漸く辿り着く。「田町駅行き」バス停を見つけるも、今度は長蛇の乗客の列、やっとの思いをしてバスに乗るも人・人・人で前が見えない。息ができない。外の景色が見えない。

 どこをどのように何処へ走っているのかも判らず不安であったが、『ピンポン』というチャイムが鳴ると直にバスが止まり、人が降りることは分かった。こんなことだったら田舎にいるときにバスにもっと乗って慣れておくべきであったと思った。

 しかし行けどもいけども先生に教えられたバス停はアナウンスしない。漸く車内が空いて来たので「案内図」を見つけバス停を追うと、六本木の先に降りるバス停があったのでほっとした。

 人様にお聞きしながら坂を下り、そしてまた今度は急な坂を登るとなにやら一本木が見えた。近寄って高札をみると「麻布一本松」と書いてある。僕と麻布一本松との出会いであった。

 目指す平井先生のお屋敷は、この坂を登りきってしばらく行った所にあった。


♪BGM 県歌  信濃の国