泉小路界隈 其の一 笊屋の老夫婦

                                    泉小路 萬良



 泉小路の由来は定かでない。ただ言えることは、須坂には寿町通りがあり、その通りを横断するかたちで老松町がある。然し、町としては寿町も老松町も須坂には実在しない。寧ろ寿丁とか老松丁と通りを意図してのものであったのかもしれない。事実、寿プラス泉で寿泉となり、上町には寿泉院という藩主の菩提寺がある。してみれば旧道は館(お城)から、寿泉院を経て八町道となるこの古道を、古くは「寿泉院通り」あるいは「寿泉院路」と右書きされていたものが、地図の上で文字の間があきすぎたために、寿の一字だけが一人歩きをし、寿町通りとなり後に残った文字が泉であり、泉が書かれた通りが狭かったので、知恵者が泉小路と名づけたと思われる。
 他にも、浮世小路、大門小路、広小路と須坂は小粋な名前の付いた小路がある。多分明治の終わりか大正時代に付けられたものであろう。



 何の因果か、昭和に生まれ、信州の上高井郡須坂町に生まれ、泉小路で育った。幾つかの偶然が重なって何時しか必然となり実在がある。この摩訶不思議な泉小路に生まれ育ったことは、現在の私の大きな心の拠り所となっている。市議会議員になって、名誉欲の塊みたいな人からあるとき、「長屋の大将」とみくびった発言をされた。「長屋育ちがよくまあ市会議員になれたもんだ。まぐれだな」と・・・
 町場に育った僕の底にある血潮が騒いだ。「町場に育ったこの俺に文句があるのか。表に出ろ。」と一喝してやったが、泉小路界隈は長屋造であったこともあり、心ない人達にはどうも見下げられる。



 物心つくと、泉小路界隈は須坂の文化の中心であることがわかった。須坂劇場があり、映画が最盛期の昭和の二十年代後半から三十年代初頭、泉小路も劇場通りも青木新道も活気に満ちていた。往来に人多く、商人はそれぞれの生業を護り、信用を重んじた街の心意気があった。食べ物屋はほとんどその道では「須坂一」の味自慢であったように思える。支邦そば、肉うどん、鍋焼きうどん、かつ丼、餃子、餅屋、中華饅頭やパン屋と店の数も多いが、それぞれの店の工夫もありうまかった。



                            


一人で遊び歩けるようになったのは、4つか5つの頃と思うが、私は決まって近所の「竹細工」を扱う老夫婦の所に遊びに行った。従兄弟や近所の同年輩が幼稚園や保育園に登園すると遊び相手は誰も居なくなる。そこで木戸を出て、路地を抜けて、この屋の裏の戸口から入って行くと、「今日も来たか?」と老人は私に言葉をかけてくれた。丸い竹が幾つもに割られ、さらに竹皮部分まで仕分けされ、長い竹の皮部分が見事な手さばきによって形になって行く様は、見ていても飽きないものであった。一本の変哲もない竹皮が形をなすことが不思議でたまらず、来る日も来る日もこの笊屋に通った。青竹の香りと竹くずに埋もれた煎餅座布団が思い出される。




 ある日訪ねると戸口が固く閉ざされ中には人の気配はなかった。それから時折顔を出したが戸口は開かなかった。主が病気になったのであろうか、やがて別な人がこの屋に入り笊屋はなくなった。今のように社会保障が整備されている時代ではなく、倒れれば職人の暮らしは破綻する。笊を編めない老婆はどうしたのであろうか。当時の僕には何処に去ったのか知る術もなかった。




 詩 笊屋のG線上のアリア

山刀が竹口をコッ、コッ と叩き、

楔にはまった刃がシュルシュルシュルと皮を裂く。

主は竹皮を何遍もしごく

やがて笊が編まれる。

  
  
 カサ、カサ、キュッキュッ、

  カサ、カサ、キュッキュッ

  シャシャ シャシャ

笊工房の独奏のはじまりだ。

職人は無口に 笊を編む。

  
    
カサ、カサ、キュッキュッ、

  カサ、カサ、キュッキュッ

  シャシャ シャシャ

職人は手を休めないで 笊を編む。

皺だらけのゴツイ罅割れのした手で、

細くしごかれた竹を毛糸のように操り

一本の竹の皮が みるみる笊の形に変わる。

 
     
カサ、カサ、キュッキュッ、

   カサ、カサ、キュッキュッ

  シャシャ シャシャ

粗末な観客席にはいつも幼い僕が一人だけ。

名前も知らない老夫婦が

今日も忙しく働いていた。

老人の皺だらけの顔が光ってる

傍らに座る女房の、夫を誇らしげにみる目が光ってる


    
カサ、カサ、キュッキュッ、

    
カサ、カサ、キュッキュッ

    
シャシャ シャシャ




こんな遠い遠い日の長閑な1コマをときに思い出す。老婆が用意してくれた指定席に、チョコンと座って見入る僕の傍で、老婆が夫を誇らしげに見入っていた。泉小路界隈は活気のある、手に職のある人の街であった。みんな真剣に生きた街であった。みんな誇りをもって生きていた。こんな環境の泉小路界隈で育ったことを、僕は生涯の誇りに思う。



BGM ♪  G線上のアリア