都電の思い出 その1                            

             平井良雄先生の書生となる

                                          泉小路 萬良

昭和42年5月、東京はまだ都電が巾を利かせていた。最盛期は41系統、総延長距離213kmにも及んでいたという。都心の道路には将に網の目のように線路が走っていた。この年の春、田舎から上京してびっくりしたのが、一つは国電と称する電車のカラフルさと連結の長さであった。何故なら、長蛇は国鉄の長距離列車としか思っていなかったからである。二つに、電車の発車時刻間隔の短さである。行ったと思えばすぐ次の電車が駅に来る。先頭車両に乗っていると先行の電車が見える。危険この上ないことではないか。とても田舎では考えられないことである。三つに、路面電車が不思議でならなかった。電車が踏み切りもなく、車が電車の前をそれも線路上を走っている様は、田舎では考えられない光景である。それも半端な数じゃなく列をなして路面電車が走っている。そんなばかな!

                


元麻布の弁護士さんの書生になってある日、初めて先生のお供をして霞ヶ関の裁判所に出かけることとなった。若先生 (平井一雄先生:民法学者、当時は独協大学法学部講師であられたが、現在は教授) が車で霞ヶ関まで序(つい)でということで送ってくださった。そのとき、大通りにある都電の停車場の名前が「〇〇橋」とチラッと見えた。

 法廷も終わり弁護士会の食堂で昼飯に「親子丼」をご馳走になったら、先生は囲碁が大好きでいらして、仲間の弁護士と碁を打つことになり、「先に帰れ。」と言われた。

弁護士会を出たが、霞ヶ関から麻布の屋敷までの帰り方が分からない。途方にくれたが、裁判所の前通りに都電が走っているのを思い出して、「中目黒行」の都電に飛び乗った。一刻でもはやく麻布の事務所に帰ろうと、都電に乗ったまではよかったが・・・・・・・

行けども、行けども、空覚えの停車場名が思い出せず、切符に東京中の停留場が書かれていても見当がつかず、到等(とうとう)終点の中目黒停留場に着いてしまった。乗客は皆降りてしまったが、そのまま電車に乗っていると車掌から、「電車は折り返しになるから降りてください。」と言われた。

さて困った。西も東も分からない。落語ではないが「俺の行く先はどこだ?」の話である。先生の名刺を車掌に見せても、車掌も何処で降ろせば良いか見当もつかないらしい。あれこれ停車場の名を上げてくれたが、生れて初めて、それも今日乗った都電ゆえに分からなかった。そのうち「麻布十番?」という地名を思い出したので、その地名を言うと、「そこなら〇〇の停留場で降りたら近い」と懇切に教えてくれた。

 チンチン!  ホウォ〜ン!  ムウ〜ンウンムンウ〜ン〜と都電は走る。

                             

都電は、5月の東京の風を切って走る。それが頬にあたる。窓から外を見ていたら、車窓の景色は違うが、風が頬を打つのは田舎と同じである。いつのまにか田舎の電車に乗っている心地になって来て不安も消えて、僕は街の景色に見入っていた。のんきなものである。

チンチン!  ホウォ〜ン!  ムウ〜ンウンムンウ〜ン〜        

 車掌さんが、降りる停留所に来たとき、「書生さん 降りるんだよ。」と親切に教えてくれた。田舎から出たての僕に、車掌さんはとても優しかった。

チンチン!  ホウォ〜ン!  ムウ〜ンウンムンウ〜ン〜と僕を降ろして、都電は走り去った。一時はどうしたものかと困惑したが、「えィ!迷っても都内だい」と開き直りをしたが、迷子もそれなりに楽しかった。

                                   

  漸くのことで、麻布のお屋敷に戻ると、弁護士会で碁を打っているはずの先生が籐椅子で、昼寝をされているではないか。そんな!

やがて、先生はおもむろに眼を開けられ、

「どこで道草をしていたのだい?」

「都電で帰れば早いと思って、都電に乗りましたが、下車駅が分からないので、中目黒まで行ってしまいました。」

「中目黒?随分遠くまでいったじゃないか!」

  僕とすれば、一刻も早くお屋敷に帰ろうとしたが、気持ちとは裏腹に2時間もかかって、漸くお屋敷に辿り着く羽目となり、先生から大目玉を食らってしまった。

(後年知った話だが、○○橋は一の橋であり、僕の乗った都電は8系統で築地と中目黒を往復するものであった。運がよく行き先が中目黒だったので帰ってこれたのだった。)

麻布の高台にあるお屋敷は、眺めが良くて、窓を開けると心地良い風が書斎に入ってきた。僕は書生とは名ばかりで、朝から夕方まで、将に一日中書斎で受験勉強をさせて頂いていた。今日書物を読むことが苦にならないのは、このときの時間があったからかもしれない。日々の生活の中にゆったりした時間帯を設けることの大切なことを師より授かったが、今となっては遠い、亡き平井良雄先生とのほろ苦い思い出である。