青春の追憶

天命と賦命の狭間で


 我が家の梅の梢で。チュンチュンと雀が鳴く。時にはチュチュチュチュと戯れる鳴き方だ。遠い遠い御先祖様から代々この雀の囀りに心癒されて暫し聞き入ったであろうと感じる。雀のさえずりに全く日本人は違和感を感じないからだ。

 今年も我が家の軒の瓦の隙間に、雀が巣づくりを始めているようだ。今は成人した子どもたちも、雀の巣立ちを物心付いた時から見て育った。私はこの時季は長子の成長を願って鯉幟を毎朝あげるのが日課だった。あるとき軒で雀のヒナが親からの餌を求めて、それはそれは騒々しくわめいているのを発見して、急遽小さな小さな鯉幟を求めて来て、鯉幟と一緒に縄に結びつけて、五月の空に泳がせたものであった。

 なぜ雀の分まで鯉幟を揚げたかと言えば、我が家の屋根の下に生れた子どもたちと、雀の子も言うなればみな兄弟。人として生れた我が子は人として育ち、雀として生れたヒナは雀として育ち、やがては天命を知り、賦命を全うする人になって欲しいと感じたからである・・・

 人は、人としての矜持の教育を受けなければ、宮本武蔵(むさし)ではないが「武蔵(たけぞう)」で一生を終わる。本能だけでは人間社会は渡れないし生きて行けない。智慧を修得せねば折角人様と生れた価値が無い。一方、毎日が生死と裏表の生き方をしている雀は、親鳥から「生きてゆくための術(すべ)」を学ばねば、音も無く襲いかかる猛禽類や猫の餌食になってしまう。

 人が人として生きて行くことを学ぶ人間社会学校も、子雀が生きのびることを学ぶ雀の学校も、大切なのは「所を得て必死に学ぶ」こ尽きる。即ち、教え(教わる)の尊さは、人も雀も全く同格ではないかと雀のさえずりを聞きながら思うこと頻り也。

2015年5月23日記す。