少子高齢者時代の公共交通の課題について

長野電鉄屋代線(河東線)時代の潮流に勝てず
                           須坂市議会議員  佐藤 壽三郎

 須坂駅と屋代駅間の屋代線(河東線)が平成24年3月31日を持って廃線される。屋代駅は信越線(現しなの鉄道)との接続駅であり、長野電鉄屋代線は当時の国鉄と相互乗入を行っており、湯田中駅発上野行「志賀」号は屋代駅まで。長野駅発の「急行信州」と連結されて、急行信州として私の青春時代は4時間掛けて上野駅まで運行されていて、盆と正月には必ず乗車したものである。

  河東線が屋代線と名称が変わっても、レールの上を走る電車の車種が、幼い時の焦げ茶色の鋲だらけの箱型電車から、東京の日比谷線の地下鉄を走っていた車両に変わっても、私の記憶に残るこの鉄路は父との思い出の鉄路に外ならない。このアルミ電車は東京で生活していた時代には、殆ど毎日お世話になった電車でもあるが、我が故郷で再会できたのも何かの因縁であったのかもしれない。

  高校時代、若穂方面の同級生の多くはこの電車を利用して通学した。だから長野電鉄がストで運休すると、先生も生徒も登校できない事情もあって、市内に4つある高校は何れも休校となったものである。又、須坂市の住民は骨折をすると多くの患者は松代の岩野におられた「骨接ぎの名医」にかかるために、一日仕事でこの河東線に乗って通院したものである。時の流れがまだ余りせわしなく無かった時代の話ではあるが、河東線自身も長閑な田園電車であった。

  風向きによっては、屋代線の踏切の警報音が我が家まで聞こえたが、明日からは踏切の警報音も二度とならない。ピカピカに光っていた二本のレールも、つかの間に光沢を失い錆がつくであろう。レールのつなぎ目で車輪が鳴らす「カタカタ」音も聞けないと思うと心が痛む。安直に電車を廃線させバスに代替を求めた選択が、簡単に時代の潮流であったと片づけて良いものであろうかとの煩悶を拭いさることが出来ないでいる。

  遂、百数十年前までは人は歩くしかなかった。幕府の戦略的施策から大きな川には橋はなく、街道といわれた道路も幅員がなく、日本では西部劇に出てくるような駅馬車は発達しえなかった。それでも藩内では盛んに大八車が馬や牛に牽かれていたであろうと推測する。時経て明治になり全国に鉄道時代が到来した。併せて渡し舟や船橋は橋脚のある永久橋が構築されるに及んで、荷馬車と馬方衆、渡し舟業は廃業となり船頭は失業した。時代と共に生業は変革するものである。

鉄道全盛時代も昭和は30年代になると、自動車の普及で物流は鉄道の貨車からトラックに移行し始めた。1000ドルカーの売り出し文句「パブリカ」が大衆車として世に出回ると所謂マイカー時代の到来を告げた。これに合わせるように社会インフラが全国津々浦々まで道路が整備されて、陸の王の名を欲しい儘にしたダントツの運輸業であった鉄道も、マイカーの普及により徐々に客足が奪われ、やがては廃線に追い込まれるプロセスを踏む。宿命といえばそれで片付くものかもしれないが、まさか郷土の河東線に波及するとは信じがたかった。

  運輸業とりわけ鉄道業は、線路の敷設と高速輸送を叶えるための安全施設、更には車両にと莫大な資本が必要な業種である。しかしお客が乗ってくれなければ必然事業は成り立たない。採算の合わない路線は廃線となることは理解しうる。鉄道業の最大の難点は、駅にしか車両は停まらないことである。開業以来河東線の駅も綿内駅と川田駅間に「若穂(わかほ)」の一駅が昭和30年代末に新設されたと記憶するが、利用者は家からはるばる駅まで歩く手間がロスタイムであり、鉄道を利用すると半日仕事や一日仕事となってしまう。この利用者の利便性を無視した地方鉄道の驕りが、沿線の人々の鉄道離れに拍車をかけたのではなかろうか。毎日利用する通勤・通学客は電車の時刻表に合わせた生活であるので何の苦にもならないが、日中に鉄道を利用する人々にとっては聊かニュアンスが異なった。

  都会は鉄道網が張り巡らされていた。私は上京して一番驚いたのは、電車の連結された長さと数分間隔で運用されているダイヤであった。学生時代に利用したのは地下鉄と都電(路面電車)であったが、路面電車の停留場間の短さは将に庶民の足を考えた利用者への最大のサービスであった。然し都電は道路敷きに敷かれたレールのこともあって、車社会では邪魔者扱され地上から姿を消した。その点、専用軌道をもつ地方鉄道の生き残り策は路面電車に学ぶべきではないか。駅間の短さとプラットホーム無しでも乗降できる低床車両の導入でしかない。専用軌道を走る地方鉄道ならばその選択も可能ではなかったか。屋代線存続のためにこの体験を私は様々な場で、様々な人に提唱したが、鉄道会社は聞く耳を持てなかった。

  郷里が誇る鉄路の文化が今日を境に「屋代線が走っていた」とする文明に化石化することが辛い。地図から屋代、松代、須坂駅まで明記されていた鉄道の記号 +++++++ が消え去る。
そして・・・
長い歳月の後に「屋代線」が大正、昭和、平成の90年間も沿線住民の足となり走り続けた事実すら、人々は屹度忘れさるのであろうが無念でならない。子孫のために文化を取り崩してしまったのではないかと悔悟が残る。



 平成25年8月18日記
須坂市議会議員  佐藤壽三郎