自然界に耳をかざせ

 人間がもっと感受性が研ぎ澄まされ、自然と会話が出来た時代に、「摩訶不思議な事象」が存在し、それを人は畏れをもって敬虔に受け入れていた。狐火や人魂なども実際にはあったのであろう。

 現代人は、何でも科学的に物事を処理する。科学的実証に基づくことを私は否定する訳ではない。それによって、幾多の罪なき弊害が除去され、今日の「自由」がもたらされた実益は計り知れないからである。
 
 古典や古文書、或いは中国の漢文を読むなかで、「もののけ」に該当する箇所が多々出てくる部分があるが、これなども半分は人伝であり、想像の中での記述に思える。当時とすれば、今ほどに情報がたやすく入手できない分、事象の発生した限定された地域では、畏れや慄き(おののき)や神業として語られたのであろう。

 人様社会は、何千年の生活の営みのなかで、あるルールを確立する。道徳或いは倫理規範と呼ばれるものであるが、これを中心棒にして、部落なり集落が単体として自然発生的にまとまり、村となり、町となり都となる。そしてこれが国家を形成してゆくが、大切なことは、倫理や道徳を無視した所業はもののけであり、時の権力者の意に添わない所業もやはりもののけの事象として処理されたのかも知れない。

 わが国も、豊臣秀吉によって「天下統一」がなされたが、指を折って数えても、たったの450年位前の話でしかない。この450年間の間に、もののけがすべて無くなったとは言えまい。前述の古文書などは、どちらかと言うとこの時代に書かれたものであり、古文書はこの時代に分類されるからである。

 現代においても、特に政治の世界は人心のなせる範疇にある分、未だに「もののけ」が蔓延る(はびこる)魔界のゾーンであるとつくづく思うのである。もののけにとりつかれないためにも、善良な市民は、もっと風と語り、雲や川や山の囁きを聞き取る謙虚さが必要だ。場合によったら野鳥のさえずりも解する度量を持ちたい。そして、古の人々が神を崇めたように、欺瞞に満ちた為政者から身を守るためや、化けを暴くための呪文が、今こそ必要なのかも知れない。寧ろ呪文は、自然界との会話をするためのパスワードなのかも知れない。


2003/11/23記す