大人は邂逅を生かして大成する


 墨坂中学校の校長先生が入学式で「人生は須らく邂逅(であい)だ、小人(しょうじん)は邂逅を解せない!中人(ちゅうじん)は邂逅を生かせない!大人(たいじん)は邂逅を生かして大成する。諸君らは邂逅を生かせる人生を送れ!」と諭された。

 人生は邂逅であると実感する私は全く同感であり、素晴らしいあいさつだと今でも感じている。

 邂逅とは・・・・・・・芥川龍之介の「蜘蛛の糸」の件(くだり)と同じではないか。何人釣るさがっても、何万人が釣る下がっても切れない御釈迦様が垂らされた「慈悲という糸」を理解できない主人公カンダタは、我欲(利己主義)によって糸を断ち切る。このことが詰まる所、己自身もまた暗闇の地獄に真逆様に落ちて行った・・・

 小人は猜疑心で凝り固まっていて、チャンスをチャンスと理解しない。チャンスだと語れば語るほど不信をあらわにする。チャンスを与えた側からすれば言いようの無い不快感だけが残る。やはり無理であったかと・・・と・・・・

 然らば、人は邂逅を何によって理解し得るのであろうか?
 財力?知力?精神力?生い立ち?社会的地位?学歴?人生遍歴?学習欲?胆力?とあれこれと思うが、これらが総合的に練り合わさったものが、即ち理解力であり、その人そのものなのである。

 これらが総合的にバランスが取れることによって、邂逅というチャンスに出くわした時に、これを理解し掴むことが即ち「大人は邂逅を生かして大成する」と表現されるのであろう。そして結果的に本人は回顧するときに「運が良かった」と言うことに落ち着く。

 邂逅は人生の分岐点であり、線路で言えば切替ポイントに匹敵する。然し、列車の切替ポイントはあくまでも行き先の分別である以上、信号と言う安全性が担保されており、安全性が保証されない以上、列車は切替ポイントで停車して動かないものである。ここが人間様の人生の分岐点と違う。

 人生の分岐点は極めて抽象的で無形なものであるから、中々形として捉えにくい。チャンスが理解できないのだ。チャンスと捉えるためには、呼応すると言う言葉が示すとおり、不断の努力と夢を掴もうとする意思が作用するものなのかも知れない。

 面白きかな人生!見えざりし慈悲の糸即ち邂逅を縦糸とするならば、信と義が横糸となって織りなす人生模様、柄がわかるまでは相当の歳月が必要であるが、織りあがったときに、歩んで来た人生の鮮やかな紋様を残したいものである。


 2007/05/27 (日)