同じ火薬であるけれど

 昨日は、隣市長野市の「えびす講」の花火であった。須坂市もかってはえびす講の時には大仕掛けの花火大会が持たれ、晩秋の大空に鮮やかに咲いたものであったが、須坂祭りに花火は統合されて「夏の夜空」を彩るものとなった。その点、伝統を守る長野市のえびす講の花火は、長野市の心意気が映えるようで羨ましい。

 花火の音を聞いていてふと思った。これがイラクやトルコ、或いはカンボジア等の戦火では大砲の音であろう。爆発音と同時に砲弾が飛び幾多の人命が失われる。この繰り返しが戦争行為であるが、市民はきっと大砲の音や銃声に慄き止むのを待つ毎日であろうかと感じた。つくづく平和の大切さを感じた。

 花火も火薬である。平和なシンボルとしての花火が、砲弾とどこが違うかである。花火は、破壊がないこと。人を殺戮するものでないこと。人々の心を和ませることが挙げられよう。この花火をもって世界中を譴責し、中東にも平和な日々が訪れることを、一瞬に消えゆく大輪に願いを込めたのは、私だけではあるまい。

2003/11/24 (月)