泉小路界隈を語る 〈其の二〉

    名 医 の 一 言                                                                                                                    
                                             
泉小路 萬良



       
町医者は、小さいときからの罹りつけの場合が多いと思われる。
     眼医者、耳鼻科さらには外科、内科と病気をしたときに、飛んで行く罹りつけの
     医者がどの家にもあった。僕が育った町場は、上高井一の陣容を誇る県立須
     坂院と民間の轟病院があったが、これらの病院に行くときは、大方は手術か入
     院と相場が決まっていた。
       「○○さんが、須坂病院に入院したんだって!」
       「え!知らなかった.早速、お見舞いにゆかなければ・・・。」
     街角での会話から数日後、新聞紙に包まれた『生卵』か『カルピス』『果物の缶詰』
     あるいは大所には『果物の篭詰め』が、入院している本人の枕もとに届く、これが
     町場の慣わしであった。





       救急車がまだ無かったこの時代では、殆どの患者は、まず町医者に駆け込み
     先生の判断で、須坂病院か轟病院に移送されていた。町医者は、夜中でも急患が
     でると診察ばかりでなく、往診もしてくれた。今でいう緊急病院の役目も果たしてい
     たのだ。
       僕は腹が痛いだの、風邪を引いただの、腰が痛いだの等は上町にあったY医師
     に診てもらって、事なきを得て大きくなったと言える。「がたく」であった僕は、とろっ
     ぴょY先生のお世話になった。その都度保険証と治療代を母から渡されて、Y先生
     のところをお気楽に訪ねる僕の後姿を、母はきっと心重く、何事もなければと祈って
     見送っていたであろうことを、2児の父親になってみて初めて解かり、親の思いを感
     じている。
       町医者は米国流にいえば、ホーム・ドクターである。そんな訳で先生は、僕の体
     のことを熟知していて、先生の所にいって治療を受けると必ず直るので、魔法使い
     かとも思っていた。





       政治家を志し19歳で上京、弁護士の書生として大学も出していただき、いよい
     よ司法試験に向けて本格的に勉強をしていた26歳のある日、悲劇が僕を襲った。
       その日も銀座の事務所から大泉の下宿に帰ろうと丸の内線で大手町まで来た
     とき、突然咳き込んで中々止まらなくなってしまった。するとどうであろうか、脈拍が
      「ドキドキドキ」と高鳴り、身動きできなくなってしまった。若干26歳の人生で経験
     のない事態である。
      「う〜ん。一巻の終わりか。」

       漸くのことで腕時計を見ながら脈拍を数えると、なんと180/分はいきそうであ
     り一気に不安が募った。
       まず声が声にならないので人も呼べない。地下鉄は到に池袋に着いているのに、
     体に力が入らず、立つと心臓が破裂するやもしれない不安から降りるに降りられず、
     ただただ動悸のおだむのをまつしかなかった。
    
       なんとかして、電車を降りることが出来、恐る恐る電車を乗り換えて部屋に帰れ
     た。

       




       翌日、近くの病院に行ったが「原因が解らず」であった。それからと言うものは風呂
    に入ると動悸がしたり、大手町近くに電車が行くと再発するのではないかと言う不安で、
    心拍が高鳴り脂汗が出るにいたりするので、池袋から地下鉄を山手線で有楽町にでる
    コースにも替えてもみたが埒があかなかった。銭湯で万が一のことがあればと、一緒に
    東京に出てきた幼馴染が付き添いで銭湯に行ってくれるような事態になっていた。

       とうとうある日、事務所で亦激しい動悸に襲われた。妹が都内の国立病院の看護婦
    をしていたこともあったので、駆けつけて来た妹に、国内で一番か二番と謳われている
    国立病院に連れて行ってもらい、緊急患者としてあれこれ精密検査を受けたが、異常は
    発見できなかった。
      検査技師に、「症状が起きているときに来ればいいが。」と言われても困った。高名
    な医師は私を問診し、診断として「自律神経失調症であると考えられる。司法試験を止
    めればすぐ治る。」と言い渡され、膏薬も飲み薬も出なかった。 

  
    『受験勉強を止めることは、政治家になることを断念しろと言われるに等しい。』
    今日までの努力はどうなるのか。母や学生時代に仕送りをしてくれた直ぐ上の姉や、家
    業を継いだ弟や病弱な妹や諸々の人たちが浮かんできた。「志の断念」は、人生のリセ
    ットに等しかったからである。
      どうしたものかと途方にくれていると、小さいときから僕の体を診てくれていた町医者
    Y医師が浮かんできた。かくなるうえは先生に診断を仰ごう。先生の見立てに「立志」も従
    おう。意を決して、早速恩師に一時帰省を願い出て須坂に帰り、Y先生の診察を仰いだ。






      青春を賭した大袈裟に言えば一生を賭けた診察であった。

    先生は聴診器をあて、あれこれ確かめていたが、やがて・・・
      
「はて、気にするようなことは、なにもないが・・・。」
      「そうですか。体に異常はありませんか。」
      「うん。」 とうなずき、先生は鼻眼鏡で僕を見て、癖であるずり落ちた眼鏡を
    はねあげた。
      「・・・・・・・・・・・・・。」
      「・・・・・・・・・・・・・。」

    僕は意を決して、
      「先生・・・・。東京でまだ勉強していても体は持ちますか。」と絞る声で訊ねてみた。
      
「うん、大丈夫だな。まだまだ勉強は出来るな。」

      二人の間に交わされた会話はこれっきりであった。先生の言葉は僕を全てから立
    ち直らせた。乾いてしまった絶望のこころに、とくとくと泉が湧き沁みるが如き思いが
    した。19歳で上京した当時の闘志が先生との会話でひたひたと蘇ったのである。






      僕はこの名医の見立てが二十六歳のときになければ、東京の恩師の下から去ら
    ねばならず、恐らくは全く別の人生であったかもしれない。青雲の志に忍び寄る一瞬
    の弱気も、名医の一言は吹き消してくれた。大病院の高名な先生や優れた設備や検
    査よりも、僕にとっては小さいときから診てもらっていた、一介の町医者の一言が、万
    能薬となり立ち直れたのである。
      志の断念を予期しながら先生の診断に臨んだ僕であったが、意外な先生の診断は
    僕に一縷の希望と勇気を与えるものとなった。嬉しかった。切なかった。僕は涙を必死
    にこらえた。亡き父に感謝をした。母や兄弟に留守を頼み、勇んで東京に戻ったことを
    昨日のように思い出す。医は仁術というが、将にそのとおりであると感じる。
      
      五十の齢(よわい)を越えた今、書斎から見入る根子岳の峯に拡がる青空は、二十
    六のときに見つめ直した蒼さと、何ら変わらない。