傘がない子は


 雨粒がパラパラとフロントガラスにあたりはじめた。暫くすると雨降りになったので、私はワイパーを緩速に調整した。

 街地に入ると下校時に遭遇したこともあって、歩道は雨傘が朝顔の如く咲いているようで鮮やかである。開いている雨傘を数えていたら、あることに気づいた・・・。

 傘を差している子が三分の一。傘を差さず濡れて帰る子が三分のニであろうか。然し、傘を差している子は、友だちを傘に招き入れる様でもなく、傘を独り占めしている。雨に濡れて髪の毛が光っている子もいるが、みんな平気で歩いている。元気がいいんだなと感じながらも、なぜか二人で使用している傘が見当たらない・・・

 僕が小学生の頃は唐傘であったが、下校時に雨が降ると同じ方向に帰る友だちとは、一つの唐傘(相合傘)で帰ったものであった。学生服がお互いに肩袖濡れても気にならなかったものである・・・。

近頃取り沙汰される人情の薄さは・・・
幼少のこのころから友情は根付くものなのに
信頼を培う機会を機会と感じていないのかもしれない。
人生で大切なのは人と人とのめぐりあいであることを、知るに幼すぎるのかも知れない。邂逅はふとした出来事の結びつきでしかない。

傘の独り占めを茲で非難する気は更々ないが・・・
濡れている幼友達を思いやる気持ちが見当たらない風景である。
学校から自宅まで、雨宿りをする場所も見当たらない。建物の構造も昔と違って軒先がない。傘を持たない子は濡れて帰るしかないのであろうか。私の少年時代とは趣が異なる。何かやるせない思いがしてならない午後のひと時であった。


2012/10/19記す。