ダブルのサトウ


 弁護士笠井盛男先生の門下生になって3年目の秋だったと記憶する。年は23歳、大学3年になっていたが、僕は相変わらず事務所にも大学にも学生服で通っていた。


 ある朝、先生は大きな紙袋を抱えて事務所に来られた。
「佐藤君、僕のお気に入りの背広だが、君にあげるから着たまえ」と渡された。
 広げてみると、ダブルの背広の上下であった。23歳になっても学生服では、忍びないと感じられたのであろう。先生が二十歳代に着られた一番お気に入りの背広を私に下さったのだ。


 早速須坂に送った。宅急便のない時代である。郵便局まで赴いて小包で送った。そして正月帰省の折に、仕立て屋さんである御蔵町の佐藤洋服店に頼んで、「私の身体に調整」をして頂いた。そして後日出来上がったものを、お袋が東京に小包で送り返してくれた。(以後、先生から頂く背広は、全てこの佐藤さんで直して頂いた。)


 その日から、僕はダブルの背広を着るようになった。23歳から殆どダブルで過ごしている。事務所も大学もダブルで通した。学内にいると学生がいきなり助教授にでもなった感じがした。そんな訳で、学生時代に着いたあだ名がいつのまにか「ダブルのサトウ」であった。


 帰坂後、三十代で不動産取引業を始めたときも、行政書士を開業したときも、背広はダブル、それも既製服が合わないのでオーダーとなる。ダブルにサイドベンツは無いのだけれど、あえてサイドベンツを特注する。私のこだわりである。三十代や四十代にダブルを着て中折帽を被って出かけると、一面識もない人様から「生意気だ!」「奢っている!」と言われたが、面識の無い人にとやかく言われる筋は無いので、「あなたも着たらいいじゃないですか?」と一向に意に介しなかった。


 僕にとってダブルの背広を着る事は、私を今日まで育ててくださった恩師への感謝の思いと、笠井門下生である誇らいと、東京・銀座の四丁目で二十歳代を過ごした青春の証(あかし)にほかならないからである。


 普段は意識的に「おれは」と言っているけれど、咄嗟の時や緊張した場面では、無意識に「僕は」と発してしまうのは、遠い遠い書生時代の名残かもしれない。